日本の城跡

和田山城


二の丸空堀・櫓台
訪問日 H30年 5月
ポイント 古墳を改造した城郭。この丘陵には大小20基の古墳が点在、当城は19号墳と8号墳を利用している。縄張りは前方後円墳である19号墳に本丸を置き、その北側の方形の8号墳に二の丸を置いており、本丸の中央に古墳の上部を削って造った櫓台を備えている。この2つの郭の東側にはいずれも土塁や大規模な空堀が廻らされているのが特徴。しかし空堀で固めている東側に対して、西側は小規模な腰郭を備えているのみで防備に格段の差がある。これは一向宗の拠点、鳥越城・二曲城が城の東方向、また金沢御坊も東北方向に位置していたため、織田軍が東側に防備を重視した為である。
印象 雨模様だが、朝早く和田山へ。ここは古墳を利用した城。城の規模は小さいが、天然の崖や墓の周囲の堀を活用している。この山全体が前方後円墳を含め、20基ほどの古墳群で、なんとなく神秘な雰囲気であった。近くに石川県最大の前方後円墳がある。
地図
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略史  城は室町後期に加賀一向一揆で活躍した和田坊超勝寺が築城した。超勝寺はもともとは越前国の寺院だったが、朝倉氏との合戦で敗れ、加賀国に逃れてきた。その後加賀一向一揆の主導権争いから、那谷寺・松岡寺の土着の門徒土豪との間で、大小一揆が起り、本願寺が推す大一揆超勝寺側が勝利を収め、加賀は本願寺領国となった。これに伴い超勝寺の勢力は拡大し、後に金沢に尾山御坊が完成するまで、国内の一向宗勢力を支配下においた。戦国末期、織田信長は越前一向一揆を破り、勢いに乗って加賀にも侵攻し、江沼・能美二郡を支配下に置き、柴田勝家を北ノ庄に配した。その後、佐久間盛政によって一揆の拠点金沢御坊が抜かれ、一揆勢の拠点は鳥越城・二曲城など白山麓に移った。和田山城には盛政の将安井左近が入城、白山麓の一向宗に対する備えとした。この後、和田山城の表舞台から消えたが、関ケ原の戦いの際、東軍の前田利長が西軍の小松城主丹羽長重を攻めた時、当城が前田軍の陣として使用されたと言われており、この頃までは城郭としての機能はあったようだ。

遠望

二の丸空堀

土塁・二の丸空堀

二の丸・櫓台(8号墳)

土塁・空堀

同反対側より


土橋

土橋・堀切

二の丸枡形虎口


二の丸


本丸手前の曲輪

本丸土塁

本丸空堀

本丸土橋

本丸虎口

本丸腰曲輪

本丸


同・土塁

本丸櫓台(9号墳)


14号墳

同の周溝跡

本丸土塁



腰曲輪

二の丸下の腰曲輪


24号墳

1号墳


高床式倉庫跡

2号墳


3号墳

4号墳

5号墳

6号墳

6号墳
    7号墳
  公園内の霊碑
 山腹の護国寺跡